沢辺瀞壱 プロフィール

生い立ち〜朝鮮半島で出生〜

  • 出生と名前の由来: 昭和15年4月、朝鮮半島の巨文島(コムンド)で生まれる。父・浩(こう)が現地の新設小学校の校長として赴任していた。名前の「瀞」は、島の周囲の穏やかな海(瀞:とろ)に由来する。
  • 幼少期: 2歳で朝鮮半島の光州へ移住。校長の子として大切にされ、現地の言葉を話し、風景を鮮明に覚えていた。
  • 沢辺家: 旧加治村の農家で、父は長男だったが、弟に家を任せて朝鮮半島へ渡った。その後父の弟たちは中国大陸で戦死している。

母の死と小学校入学

  • 終戦と引き揚げ: 昭和20年8月、5歳で終戦を迎える。母、姉とともに朝鮮から日本へ引き揚げる。父は終戦直前に召集動員されていた。
  • 母の死: 飯能に引き揚げ、父とも合流できた。帰国後まもなく、母・まさが引き揚げの苦労もたたり、39歳の若さで亡くなる。
  • 小学校生活: 飯能町立加治小学校(現在の飯能市立加治小学校)に入学。
  • 新しい母: 小学校入学の年、川島村(現在の比企郡川島町)の小高多美子が父と再婚。非常に明るい性格で、農作業に励み、沢辺家を支えた。後に妹と弟も生まれ、4人兄弟となる。
  • 学校生活: 学級委員などを務め、周囲との調整役(根回し)としての素養を育む。小学校卒業後は飯能第一中学校へ進学し、多くの友人に恵まれる。

中央大学法学部へ進む

  • 高校時代: 飯能一中、獨協高校を経て中央大学法学部に進学。高校時代は理数系が苦手で、父が望んだ医学の道は諦めた。同級生にはTBSアナウンサーの大沢悠里氏がいた。進路については法学部に改めて、当時私大随一の権威があった中央大学を受験し合格する。
  • 大学生活: 当時、中央大は司法試験合格者が非常に多かったが、沢辺氏自身は法曹界を目指すよりも学生生活を楽しんだ。一方で、学生運動が激しい時代を直に体験し、政治や行政について関心が高まる。

埼玉県庁にて母子衛生に従事

  • 埼玉県庁時代: 昭和39年、埼玉県庁に就職(上級職行政職)。衛生部医務課に配属され、乳児死亡率低下のための母子衛生事務や障害児の医療費補助などを担当した。
  • 退職の決意: 勤務2年目に父が交通事故で重傷を負う。「早く帰ってこい」という父の願いを聞き入れ、惜しまれつつも県庁を退職。この時の組織運営や予算管理の経験が、後の会社経営や市長職に活かされた。

自動車学校の経営

  • 創業体制を支える:父が創業し、自分自身も手伝っていた飯能自動車学校は昭和37年に公認を得た。新たな「家業」となった飯能自動車学校の業務に従事し、教習指導員、技能検定員の資格を取得した。間もなく会社組織として株式会社化し、経営体制も整えた。
  • 管理者として:経営者としての立場もありつつ、管理者として自動車学校の実務と教習や指導員のレベルアップに尽力。交通事故の防止に真摯に取り組む。

結婚〜地域の活動に参加

  • 結婚:母の多美子の親戚である冨田早苗と結婚。一男四女をもうける。妻早苗は沢辺家に入ると家事や仕事を支えつつ、子育てに取り組んだ。
  • 地域の活動:飯能青年会議所の理事長や、PTA会長などを通じ、飯能市の選挙活動にも参加するようになり注目される。
  • 父の死:脳梗塞を患っていた父が亡くなり、名実共に会社の代表となる。弟の秀二も会社に入り教習所の運営を支える。

政治家の道へ

  • 市議会・県議会へ: その後、地元の声に押されて昭和60年に市議会議員に出馬しトップ当選する。1期務めたあとに、勇退する市川宗貞市長の後継指名を受けて飯能市長選挙に出馬するものの、準備期間の短さもあって惜敗。2年後の県議会議員選挙には、有力な現職候補を破って当選。県議会議員を3期務める。
  • 商工会議所の会頭・教習所協会の会長:50代ではあったが、急遽飯能商工会議所の会頭を務めることになり、変革の目処をつける。また、県議の立場から埼玉県指定自動車教習所協会の会長も務める。
  • 飯能市長に就任:県議会議員時代には、県庁時代の人脈も生きて充実した日々を過ごす。3期目の途中で飯能市長の引退に伴い市長選挙に出馬し、当選する。その後飯能市長を3期12年間務め、2013年(平成25年)に退任。

叙勲 そして再び地域へ

  • 叙勲:2019年には旭日中綬章を受章。
  • 地域の活動:市長退任後は飯能ロータリークラブに復帰。さらに、遺族の立場から、英霊にこたえる会、明治神宮崇敬会などの地域活動のリーダーとして活動。